I Feel Fine
solo exhibition 「I Feel Fine」
開催日:2024 /10 /4 ‐10 /28
場所:庭文庫
はじめまして。堀太一です。お久しぶりの方も、ご無沙汰してます。岐阜県可児市で育ち、あれやこれやで2015年から細々と個展をやっています。最近は美濃桃山陶をベースにした食器ブランド「泥々」も運営しています。食器を作りながら、手の赴くままに土をこねてみたり、夜な夜な水彩画を描いたり、作曲したりしています。今回はそんなふうに「手の赴くまま」に作った陶芸や水彩を展示します。
ここでまず、「手の赴くままに」といささか奇妙な表現になってしまうのかを説明しなければいけません。今回展示させていただく庭文庫さんのことを例にあげます。
あるとき庭文庫さんのことを知って、どうしても行かなければいけない気持ちになりました。いざ行ってみると、並んでいる本が僕の書棚と似ていました。さらに展示もできると知って、「ここで個展をしなければ!」というよくわからない使命感に苛まれるようになりました。お話してみると百瀬さんがすぐにOKしてくれました。「これで使命を達成できる」という妙な安心感を得られました。
百瀬さんありがとうございます。
はたしてここでいう「使命」が何かを僕は認知できていません。こんなふうに僕の意識とは別にもう一人の自分がどこかにいて、もう一人の自分の意識と乖離しているのがお分かりいただけるでしょうか?庭文庫さんのときのように、場所に呼ばれたり、顔しか知らないような人なのに「ちゃんとお話してみないといけないなぁ」と使命感を感じていたら向こうから連絡が来たり、連絡をとってみたらポンポンと事が運んだり…
足が赴くままに、心が赴くままに動いています。ジュリアン・ジェインズは僕のこの感覚を「二分心(注1)」と呼ぶのだろうか?
僕はそんなふうに、目的も手段も原因も結果も関係のない生き方をしています。心のどこかではいつも「なるようにしかならない」と思っている節もあります。たぶんそれは僕自身が「人の行為とは、人間が行う自然現象の一つ」だと認識しているからなのかもしれません。
とりわけ芸術は人間が行う自然現象を忠実に表出しているように感じています。手が勝手に考え、描き、作ったりしているように感じています。僕であって僕でない身体がそこにあることを知り、手が赴くままに作り、作品そのものが考えるように作ったりと作者である僕自身を切り離しています。あとあと作った作品を見返すと鑑賞者として色々なことを感じ面白く、まさに字面のとおりの自画自賛、地産地消しています。
そう、作者である僕さえも自分の作品の前では、鑑賞者としてしか対峙できなくなっています。だから毎回個展では作者面して座っていますが、正直なところ鑑賞者の1人にすぎません。
だんだんと、作者をほっぽり出して生まれてきた作品に対して、なにか感情を抱くようになってきました。なんだろうかと思っていたら「絶望」というやつかもしれないと思いました。生まれた作品を理解できるわけでも無く、作者として作品に何かをしてやれるわけでもなく、限りなく無力でしかないからです。
しかし、この「絶望」は意外に悪い感じもしませんでした。ある種の諦めに近いこの「絶望」の前では、生まれてきた作品をただただ受けいれるだけでよく、作品に良いも悪いもなくなってしまいます。生まれてきた作品は子供が生まれたときのようにただただ祝福するだけでよいのです。
「絶望」は気分爽快、” I feel fine !”といった印象。
ということで、今回の展示のタイトルは”I Feel Fine”とさせていただきました。
注1:ジュリアン・ジェインズ著 「神々の沈黙ー意識の誕生と文明の興亡」紀伊國屋書店 2005年
I Feel Fine
I Feel Fine solo exhibition 「I Feel Fine」 開催日:2024 /10 /4 ‐10 /28 場所:庭文庫 はじめまして。堀太一です。お久しぶりの方も、ご無沙汰してます。岐阜県可児市 […]